思想

【要約&書評】『なぜ今、仏教なのか』

「ダイエットしたいのに夜食のアイスクリームがやめられない」「運転中に割り込みされたらイライラし、怒鳴りつけたくなる」「自分の一言を相手がどう思ったか気にしてしまう」

これらの私たちの悩みは、ブッダのいう「ドゥッカ(苦しみ、不満足)」です。

そしてそのドゥッカの原因は「タンハー(渇き、渇愛、欲望)」であるとブッダは説きます。

このままでしたら普通の仏教の教えですよね。

本書はここからややこしい仏教を少し離れます。

本書は現代科学、特に進化心理学によってこれらの仏教の教えを裏付けていきます。

進化心理学の「自然選択」

先ほどの例題をもう一度見ていきましょう。

ブッダは苦しみからの解放の鍵は欲望の克服だとします。

本書は進化心理学の観点から、この欲望は人間が獲得した自然選択という「錯覚」であるとします。

例えば、美味しそうなドーナッツについ手を伸ばしてしまう感覚です。

ドーナッツが目の前にある時に、「今糖分を必要としてるから」と考えてから手を出したりしないですよね。

これは甘いものを食べるという快楽を欲する感覚による自然選択です。

その快楽は一瞬で消え失せ、再び快楽を追い求めます。

それは遥か昔の時代から人間に培われた自然選択であり、次から次に快楽を求め遺伝子を残す方法なのです。

なのでドーナッツを一つ食べ終わると、すぐにもう一つ食べたくなる錯覚を見せます。

また反対に、危険なものや不快なものは避けたいという欲望もあります。

公園の草むらからカサカサっと音がした時、「もしこの音の正体がヘビで、このヘビがもし毒を持っていたら危ないから離れよう」と考える前にきっと避けているでしょう。

有益なものには近づき、有害なものは避けるという、自然選択による基本的な行動決定です。

そして、私たちが進化させてきたこの性質が、今私たちが生きている現代社会に合わない部分があるのです。

「運転中に怒鳴りつけたくなる」という感覚は、狩猟採集社会の親密で変化のないコミュニティでは自分を侮られないためには価値がありました。

他にも「相手が自分のことをどう思ってるか気にしてしまう」という感覚も、変化のないコミュニティで他者の機嫌を損ねると自分に不利益を被る可能性があったからです。

これらが自然選択という感覚によって私たちに見せる「錯覚」です。

自然選択は自分の遺伝子を残し大事にするために設計されています。

つまり自然選択による感覚とは、「祖先が遺伝子を残すために役立った思考や感覚」です。

そのため感覚の言いなりになるだけだと、世界を明晰に見られずに私たちに苦しみが生まれるのです。

現代科学と仏教

今度は今見てきた進化心理学を元に、もう一度仏教に戻りましょう。

ブッダは最初の説法で「苦しみには原因がある」と説きます。

それは「ものには必ず原因と結果がある」、「すべてのものはそれだけであるのではなく依存しあっている」という「縁起」です。

人は眼、耳、舌などの感覚機能の「縁」で物質世界と接触します。

接触の「縁」で感覚が生じます。

感覚によってタンハー、つまり渇愛が生じます。

ここで一旦立ち止まって考える必要がありますので引用します。

「感覚と渇愛のあいだこそ、束縛が無期限の未来にまでつづくか、悟りと解放におきかわるかを決める闘いが起こる場所です。渇愛に、快楽への猛烈な渇望に屈するのではなく、感覚の性質をマインドフルに意識的に観察し、感覚をあるがままに理解すれば、渇愛が結晶化し個体になるのを防ぐことができます。

引用:ロバート・ライト 2018 『なぜ今、仏教なのか』p265

つまり苦しみからの解放には、感覚への気づきを養い、感覚との根本的な関わり方を変えることです。

苦しみからの解放と言うとどうしても胡散臭くなりますが、私たちを振りまわす感覚の言いなりになるのを止める事は、ただたんに自分の人生をより良く送るためにあっても良いのではないでしょうか。

まわりのものごとー光景、音、におい、人、ニュース、映像ーがあなたの神経を逆なでし、あなたの感覚を作動させ、どんなにさりげないとしても一連の思考や反応を始動させ、それがときに不運な形であなたの行動を決定する。あなたがその現状に注意を払いはじめないかぎり、まわりのものごとはそれをやめない。

引用:ロバート・ライト 2018 『なぜ今、仏教なのか』p267

つまり、快い感覚に対しては反射的に渇望が生じるにまかせ、不快の感覚に対しては反射的に忌避が生じるにまかせるなら、周りの世界に支配され続ける事になります。

しかし感覚にただ反応するのではなく、感覚をマインドフルに観察すればある程度その支配から抜け出せます。

つまり、作用を及ぼしてくる原因に気づき、物事が自分を操る方法に気づく事であり、
快い感覚に対する渇望と不快の感覚に対する忌避を生じさせる場所に連鎖の鎖がある事に気づく事です。

言い換えると、世界に対する自分の反応に可能なかぎり明晰な世界観を持ち込む事です。

それには感覚をマインドフルに観察し「自分の感覚に勝手な判断をさせない」、「自分の感覚に触れ感覚に振り回されない事」です。

まとめ

いかがだったでしょう。

「自分の感覚に気づく」という点は『反応しない練習』の「ムダな反応をしない」にも共通する点でしたね。

本書の著者は「現代社会で生活する一般の人」であり仏教の瞑想を実践しました。

その経験を元に本書は仏教の説く真理を現代科学の観点から語り直し、その実践と哲学を「精神的」な探究の道として提示したとても面白い本です。

興味のある方は是非手に取ってみてください!