
本書は昭和19年という戦時中に鈴木大拙氏によって著された本です。
本書は鈴木大拙氏からの「その時代の日本人に向けたメッセージ」が込められています。
なかなか読みづらい箇所もある肉厚の本ですので、
初めての方は、読み易い第五篇の「金剛経の禅」から読み始めるのもアリだと思います。
興味のある方は是非手に取ってみて下さい!
本書の意図
本書の初版は太平洋戦争末期の昭和19年に刊行されました。
執筆当時の時代は軍国主義、帝国主義の「力」によって盲目的に形作られています。
そうした中で昂揚される「日本精神」を批判する表現としての「日本的霊性」でした。
その頃は軍閥の圧力でむやみに押えつけられて居たので、これではならぬ、日本の将来はそのようなものであってはならぬと考えた。(中略)
引用:鈴木大拙[2010] 『日本的霊性 完全版』角川ソフィア文庫 P432
それやこれやの考えから、日本的霊性なるものを見つけて、それで世界における日本の真の姿を映し出すことの必要を痛感した。
上記は戦後の新版に述べられていますが、
本書が日本人に向けた、時代に向けたメッセージであることが伝わりますね。
日本的霊性とは
それではまず、「日本的霊性」という言葉の意味を見ていきましょう。
本書の冒頭で、「霊性」を「精神」と対比しながらその特徴を示しています。
「精神」という言葉が使われる時、基本的にはその言葉の裏には「物質」があります。
つまり、二元的な思想を「精神」は持っていることになります。
そして二元的な「精神」では戦争や争いの対立は避けられず、平和をもたらすには
二つを包むような「霊性」に至らなければならない、とします。
また、言い換えると「霊性」は宗教意識のことです。
それは、言葉で言い表すことの出来ない、自分の感覚で触れるものと言えます。
そして、その霊性の日本的なものの現れが、
鎌倉時代に発展した日本仏教の浄土系思想と禅思想から見れると著者は述べています。
古代万葉の時代は、純朴な自然生活を送り精神世界はまだ宗教に入っていないとしています。
また奈良・平安時代の仏教は、日本の上層部に概念的に結びついたに過ぎず、
貴族の生活・文化からは宗教は感じられないともしています。
この鎌倉時代というのが1つのポイントです。
では、なぜ鎌倉時代なのでしょうか。
そして、日本的霊性はどこにあるのでしょうか。
その鍵は「大地」であるとしています。
『日本的霊性』要約
①大地性
人間は大地を耕し、種を蒔き、その手に触れて農作物を収穫します。
そして太陽のありがたみを大地から感じます。
つまり人間は大地を通して、自然との交わりを経験します。
大地ほど具体的なものはなく、この具体的なものから「霊性」は生まれます。
そして、その大地と親しくしている人間、すなわち農民から宗教が出るとき、
もっとも真実性を持ちます。
平安時代の公家・貴族の「恋のあはれ」や、四季の花鳥風月を詠ずる世界に「霊性」は生まれませんでした。
その公卿文化が、農民とともに生活していた地方の武士の文化に代わったのが鎌倉時代でした。
また鎌倉時代には元寇という、日本に外圧が加わり、
日本人が日本人というものを見つめ直す機会がありました。
そうした背景の、新しい鎌倉時代の文化・思想の特色は
- 浄土系思想
- 禅思想
の2つです。
この2つは基本的に一方は農民に、一方は武士の間にそれぞれ浸透しました。
それでは次にこの2つを順番に見ていきましょう。
『日本的霊性』要約
②浄土系思想
鎌倉時代に、農民などの庶民階級に浄土系思想が入って来ました。
それは、法然上人、親鸞聖人の「なむあみだぶつ」という他力の称名念仏です。
そして著者は、法然、親鸞に日本的霊性の現れを見てとれ、その霊性的経験は大地から獲得したと見ています。
特に親鸞は京都で法然のもとで学んだ後に、流罪となり地方の越後へ流されます。
そこで親鸞は京都文化と全く異なる越後の自然環境の中、大地と親しむ人々と起居を共にし、
つぶさに自分の身の上に「大地」の経験を味わいました。
それは鋤鍬を動かす人々の間に入り、自らも鋤鍬を動かす実際に大地に即した生活でした。
ここで親鸞は大地的霊性に触れます。
振り上げる一鋤、振り下ろす一鋤が、絶対である。弥陀の本願そのものに通じて行くのである。否、本願そのものなのである。
引用:鈴木大拙[2010] 『日本的霊性 完全版』角川ソフィア文庫 P119
霊性の体験を言葉で説明するのは難しいのでしょう。実際に体験するしかないのでしょう。
なので都の僧侶、または、文化人・知識人の机の上の観念の世界では霊性に至らないのです。
そして無学の農民に浄土系思想を通しての日本的霊性があります。
日本的霊性には大地という具体性が必要なのです。
『日本的霊性』要約
③禅思想
日本的霊性は一方で、浄土系思想に顕現し、一方で「禅」に顕現します。
そして知識階級であり、思考を大事にした「禅」は武士・武家の間に広がります。
ちなみに『日本的霊性 完全版』では第五篇が「金剛経の禅」になっています。
「金剛経」は「般若経」という六百巻もある膨大な経典のなかで一番簡潔な経文です。
その「金剛経」の中心思想を著者が例式を表しているので引用します。
AはAだというのは、
引用:鈴木大拙[2010] 『日本的霊性 完全版』角川ソフィア文庫 P327
AはAでない、
故に、AはAである。
上記を簡潔にすると、「AはAでない、故に、AはAである」と言うことも出来ます。
つまり、ものを見る時に、まず否定されてから肯定に還るという「即非の論理」です。
この回り道が、霊性に至る途だとしています。
そしてもう一つ「金剛経」のなかで有名な文句が
「応無所住而生其心」です。
これは「応(まさに)住する所なくしてしかもその心を生ずべし」と読みます。
意味は「無心」「囚われない心」です。
そしてこの「応無所住而生其心」を著者は行為面から見ます。
知性面の即非の論理と、行為面の無所住の両面があって霊性的生活があります。
まとめ
いかがだったでしょう。
著者の鈴木大拙氏は霊性の現れを日本仏教の浄土系思想と禅思想に見ています。
日本仏教全体からフラットに見ると、少しこの2つに偏り過ぎている感は否めません。
しかし、言葉でなかなか言い表せないことを文字にしようと本書で試みていると思います。
ですので、同じような内容を繰り返す、行きつ戻りつの文章に悪戦苦闘すると思います。
比較的読み易かった第五篇から読み始めるのもおすすめです。
興味のある方はぜひじっくりと読んでみてください!